先日、96歳でお亡くなりになったエリザベス英女王の国葬が執り行われました。
昨年はフィリップ王配が99歳でお亡くなりになったのですから、お二人とも大変な長命でいらっしゃいました。
昨今は人生90年とも言われるほど寿命が延びています。
私が子どもの頃の80歳と現代の80歳ではパワフル度合いが全く違うように感じますし、お元気なお年寄りが大勢いらっしゃいますよね。
自分の脚で歩き、好きな物も食べられて、思い思いの余生が過ごせるなら長寿は最高の幸せです。
そういった意味で、エリザベス女王とフィリップ王配は最後まで国民を想い、国民に寄り添った人生であったからこそ穏やかな晩年と旅立ちであったのだろうと拝察します。
ということで、今日は人の死にまつわる少し踏み込んだ話です。
『ピンピンコロリ』という標語をご存知の方も多いかと思いますが、反対の『ネンネンコロリ』という言葉があるのをご存知ですか?
亡くなる直前まで元気に過ごし、あるときスッと旅立つ『ピンピンコロリ』に対し、寝たきりの状態が長く続き、やがて旅立つ『ネンネンコロリ』。
いずれこの世から旅立つのは同じでも、その途中経過がどうであるかはご本人にとっても、遺されるご家族にとっても大きな違いがあります。
人生の最期くらいは苦しまずに穏やかに旅立ちたい、と思うのは当然の人情。
でも、実際はどうでしょうか?
いつ、どう亡くなるのか
自死は別として、人が亡くなるタイミングは自分の意思ではどうにも調整できません。
また、どんな晩年でどのように亡くなるのか?ということも自分の願い通りにいかないことが多いものです。
もっと生きたいと思っても病気や不慮の事故で亡くなる方もいれば、逆に、早くあの世へ逝って楽になりたいと思ってもなかなか旅立たせてもらえない方もいる。
正に、人の死にはその方の運が明確に表れるのです。
どのような最期を迎えるか、それはその時、その瞬間に決まるものではありません。
亡くなるずっと前、何年、何十年と前の生き様や方罪が巡り巡ってその方の旅立ちに表れます。
1つの例えとして、家族に見守られ静かに旅立てた人がいたとします。
人生の途中は山あり谷あり。苦労も多かったけれど必死に生きてきたから思い残すこともない。
最愛の人が見守る中で旅立てたなら、振り返ってみて幸せな人生だったと感じられるでしょう。
反対もあります。
不自由のない豊かな暮らしぶり。それでも家族が離れていき、子供はいても寄りつかない寂しい晩年。
最期は一人孤独の中で苦しみながら息絶えていったら、どんなに途中が幸せだったとしても、悲惨な人生だったと感じてしまう。
そういった結果だけを見ていると、何てお気の毒に…と感じますが、そうなるにはなるだけの因果が必ず過去にあったということです。
一生という超ロングスパンの中で、自らやってきた行いの帳尻が必ず合うように私達は生かされている、即ち、悲しい寂しい苦痛の最期なら、それがその方の人生に相応しい結末であったということになります。
非常に残酷で厳しいようですが、それだけこの世は厳粛に機能しているのです。
当会的に言えば、凶方を長いこと使っていて(法)を犯していたのか、または価値観や処世といった生き方そのものである(道)を外していたのか、あるいはそのどちらともがマズかったか。
内実は人それぞれなものの、原因は必ずどこかにあります。
当り前に生きる
まだ若いうちは自分の最期なんて考えもしません。
将来がどうなっていくかなんて全く想像もつきませんし、判りっこない。
でも、これだけは言えます。
自分に課された責任や役割を過不足なく全うすること。家族や関係する人々との人間関係を穏やかにしておくこと。(これら法以外の要素は全て道の範疇)それらが大方できていれば相応の最期を迎えることができると。
ようは、特別なことをするわけでもなく、自分の立場に応じたやるべきことをしっかりやり、当然の努力をし、当り前に生きる。とてもシンプルな答えです。
でも、これが意外と難しいのですが…。
自分ではちゃんと責任を果たして役目を全うしているつもりでも、端からすると全然…と思われていたり、結局自分のことばかりで周囲を蔑ろにしていたら当然人は離れていき、最終的には予想もしなかった結末が待っていた…なんてことはよくあります。
心静かな晩年を迎えるためには、元気なうちからそれなりに生きていなければ叶いません。
誰だっていつかは旅立ちの日がやってきます。
その日を迎えるまで、どう生きるかはその人次第です。
ただ、『終わりよければ全て良し』を願うなら、今を精一杯生きることです。
(法)を使うのはハードルが高くても、(道)を大きく外さないように生きることが大切なのです。